根っこの芽

やはり、それなりに間が空いてしまいました。

昨年の秋から続いている「文字しごと」に追われているのですが、
その着地まで、あと少し。
それで、少しずつ自分の書きものに頭が向き始めています。

そういえば、前回「インプットやアウトプットを変えて」と書いたあと、
ほどなくしてTwitterを始めてみました。
何の役に立つのか分からない、ちょっとしたことを書き連ねていますが、
たまに「パズルの根っこ論」の芽みたいな思い付きも入っています。

きちんと整理するには、もうちょっと時間が必要かな、という感じです。
サイトの剪定も、少しずつ進めています。

根っこの前に

たしか十年くらい前に、「パズルってシャヘイだね」と言われたことがあります。
しゃへい?
漢字だと「遮蔽」なんて書く、あのシャヘイです。
そう言ったのはパズルとは無縁の人で、それでも職業がら、物事の観察には長けた人物。

その方の話だと、パズルってのは結局のところシャヘイだと、そう言うわけです。
実は、私の記憶もあいまいで、あまり話の前後もはっきりしないのですが、
自分の作ったものを見せたら、そんな発言が出てきたように記憶しています。

つい最近、とある案件で、パズルの資料を大量に調べる必要がありました。
まるで、パズル史の長編映画を一度に見てしまったような、
かなりの情報過多におちいったときのことです。

不意に、あぁパズルの全体に「隠す」とか「隠れている」とか、
そういう状況があふれているな、と思えたのです。
大発見をしたとか、そういうことではなくて、なんとなく。
これが、シャヘイということかと。

もちろん、「隠すこと」はパズルに限らないのだけれど、
ただ、少なくともパズルにとっては外せない要素の一つでしょう。

パズルの問題だったり、パズル的なおもちゃを作る人たちにとって、
どんなことを見つけてもらうか、それをどこまで見せておいて、
何を、どうやって隠すのかは、とても大事なポイントです。

ゴールを隠さずに見せて、そこに挑ませる面白さもあれば、
あえて隠すことで面白くなったものもある。
その隠し方なり、隠したこと自体を楽しむわけで、
そういう変化を時代に沿って追えば、パズル史になるのかもしれない。

その一方で、パズルを楽しんで、面白さを伝える人たちもいます。
どこまで隠さずに言ってしまうか、どこまで見せてしまうか、
写真を撮るときは工夫しないと、なんて考えたりしますね。

情報を得る側にとっては厄介なのかもしれないけれど、
そういう秘密派と公開派みたいなスタンスの違いも、
これまたパズル界隈の面白い現象だったりするわけです。
ここにも、向きの違ったシャヘイがあります。

そんなことを、だらりと考えていたら、
そろそろパズルの根っこについて考えてみても、
何か得るものがあるかもしれないな、と思いました。

「パズルを考える」のではなくて、「パズルについて」を考える。
それで、「パズルの根っこ論」なんてカテゴリーを作ってみました。