たしか十年くらい前に、「パズルってシャヘイだね」と言われたことがあります。
しゃへい?
漢字だと「遮蔽」なんて書く、あのシャヘイです。
そう言ったのはパズルとは無縁の人で、それでも職業がら、物事の観察には長けた人物。
その方の話だと、パズルってのは結局のところシャヘイだと、そう言うわけです。
実は、私の記憶もあいまいで、あまり話の前後もはっきりしないのですが、
自分の作ったものを見せたら、そんな発言が出てきたように記憶しています。
つい最近、とある案件で、パズルの資料を大量に調べる必要がありました。
まるで、パズル史の長編映画を一度に見てしまったような、
かなりの情報過多におちいったときのことです。
不意に、あぁパズルの全体に「隠す」とか「隠れている」とか、
そういう状況があふれているな、と思えたのです。
大発見をしたとか、そういうことではなくて、なんとなく。
これが、シャヘイということかと。
もちろん、「隠すこと」はパズルに限らないのだけれど、
ただ、少なくともパズルにとっては外せない要素の一つでしょう。
パズルの問題だったり、パズル的なおもちゃを作る人たちにとって、
どんなことを見つけてもらうか、それをどこまで見せておいて、
何を、どうやって隠すのかは、とても大事なポイントです。
ゴールを隠さずに見せて、そこに挑ませる面白さもあれば、
あえて隠すことで面白くなったものもある。
その隠し方なり、隠したこと自体を楽しむわけで、
そういう変化を時代に沿って追えば、パズル史になるのかもしれない。
その一方で、パズルを楽しんで、面白さを伝える人たちもいます。
どこまで隠さずに言ってしまうか、どこまで見せてしまうか、
写真を撮るときは工夫しないと、なんて考えたりしますね。
情報を得る側にとっては厄介なのかもしれないけれど、
そういう秘密派と公開派みたいなスタンスの違いも、
これまたパズル界隈の面白い現象だったりするわけです。
ここにも、向きの違ったシャヘイがあります。
そんなことを、だらりと考えていたら、
そろそろパズルの根っこについて考えてみても、
何か得るものがあるかもしれないな、と思いました。
「パズルを考える」のではなくて、「パズルについて」を考える。
それで、「パズルの根っこ論」なんてカテゴリーを作ってみました。